2009年度第1学期                       入江幸男
学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」

 
        第六回講義(2009年5月29日)

 
Was bisher geschah. 先週の復習
 
これまでやってきたことは、次の問題に取り組むことでした。
<観念論を徹底すると、「存在するとは、意識されていることである」というテーゼにたどり着くだろう。そこで、意識の存在についてもこのテーゼを適用すると、意識が存在するためには、それもまた意識されていなければならないと言うことになるだろう。では、そのような事態を整合的に考えることが出来るだろうか?>
 
これまでで明らかに出来たことは「唯一の基底的な気付きが存在する」ということまででした。フィヒテは、これを主観−客観と考えましたが、我々としては、まだそれを証明できていません。
 
しかし、他方で、フィヒテは、知的直観を言語で表現することは出来ないと考えていました。したがってフィヒテもまた、知的直観の存在を証明することは出来ない、と考えています。
 
ここから先を論じるには、言語の問題を扱わなければなりません。が、その前に、今週と来週の二回で、「観念論は、現代の認識論とどのように関係するのか」を、見ておきたいとおもいます。
 
先週次の課題を出しました。
 
次のどれかに答えてください。
問題1「自己意識とは何でしょうか?」
問題2「一人称代名詞「私」を使用できるということは、自己意識をもっているということでしょうか?」
問題3「「私」を使用できるためには、知的直観が必要でしょうか?」
問題4「自己意識が可能であるためには、知的直観が不可欠でしょうか?」
 
これらの問題に関心の或る人は、
G. ライル『心の概念』(1949) 第6章「自己認識」
’Self-Knowledge’ in Stanford Encyclopedia of Philosophy
 

        §5 内在主義と観念論
 
1、認識論の諸問題
問1「我々は世界を認識しているといえるのか?」
例えば、日常生活で、我々は、身の回りの対象についてほぼ正しい認識を持っている。例えば、自然科学は、世界について、現在の我々がもちうる最上の認識である。ゆえに、我々は世界を認識している、といえそうだ。しかし、「これらの事例を、認識の事例と呼ぶのがふさわしいのかどうか」「これらの事例を、他の仕方で理解する方法あるかもしれないし、そちらの方法のほうが、より適切である可能性がある」これらの問に答えるには、まず「「認識」という言葉で、我々は何を理解しているのか」という問に答える必要がある。
 
問2「認識とは何か?」
ある対象を認識するとは、ある対象についての知識を獲得することの一種である。対象についての知識を信頼できる人から教えられて獲得するときには、我々は対象を認識するとは言わない。対象についての知識を想起するときにも、対象を認識するとは言わない。対象についての知識を伝聞や想起によって得るのではなくて、自分でつくるときに対象を認識すると言う。では、知識とは何だろうか。
 
問3「知識とは何か?」
 知識には、命題知、技能知、体験知など、いろいろなものがあるが、その中の命題知を獲得することが認識である。
 
問題4「命題知とは何か?」
 プラトン以来の伝統では、命題知とは「正当化された真なる信念」(JTB)である。しかし、これに対しては、ゲティアからの批判があった。ゲティアの反例は、JTBであるけれども、我々の常識的な理解によると知ではないという事例であった。ゲティアのJTB批判は、常識的な知の理解に基づいている。そこで、知の定義の修正が試みられるが、まだ合意を見ていない。つまり、我々は、その常識的な知の理解を文章で明示することができないでいる。
しかし、この知の定義の試みの中から、外在主義という新しい立場が登場した。これに対して従来の立場は、内在主義と呼ばれるようになった。内在主義とは、正当化は、当事者に知られていなければならない、と考える立場である。それに対して、外在主義は、正当化はその全てが当事者に知られていなくてもよい、と考える立場である。
 
2、内在主義と外在主義
 
認識論の現状は、内在主義と外在主義の対立によって特徴付けることが出来るだろう。「近年の、ほとんど例を見ない認識論の活況は、主としてこの問題[信念の正当化の問題]に対する反応である。1980年代前半からの十数年間、認識論の爆発的とも呼ぶべき状況が訪れ、かつてないほど多くの新説が出され、精緻化され、議論され、批判され、そして少なくとも大多数の哲学者によって、手に負えないものとして打ち捨てられた。」(Laurence Bonjour and Ernest Sosa, Epistemic Justification: Internalism vs. Externalism, Foundations vs. Virtues, 2003. ローレンス・バンジョー&アーネスト・ソウザ 著『認識的正当化』上枝美典訳、p. 5
 
経験的認識論的正当化については二つの対立項がある。一つは、基礎付け主義(foundationalism)VS整合主義(coherentism)の対立であり、もう一つは、内在主義(internalism)VS外在主義(externalism)の対立である。
 
基礎付け主義:「正当化は、最終的に、他の信念の正当化にまったく依拠しない「基礎的な」信念から生じる」(前掲訳、p.5
整合主義:「正当化は、その信念体系の外部に訴えることなく、信念間の整合性や一致、あるいは相互扶助という関係から生じる」(前掲訳、p.5
 
内在主義:「認識的正当化は、信念をもつ人が意識的な反省によって(少なくとも原理的に)アクセス可能であるような、その人の心の意識状態に内在する要素に依存しければならない」(前掲訳、p.5
外在主義:「認識論的正当化は、その人の意識的な気付きの範囲をまったく超えて、心のそのような状態からみれば外在的であるような要因から生じても良い」(前掲訳、p.5
 
基礎付け主義の困難を明瞭にしたのは、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」(H.アルバート)である。内在主義の困難を明瞭にしたのは、「ゲティア問題」である。これらについては、以下を参照のこと。
 
参考文献
1, Edmund L. Gettier,‘Is Justified True Belief Knowledge?’in “Analysis” 23 ( 1963)pp. 121-123 , http://www.ditext.com/gettier/gettier.html 
2, Alvin I. Goldman, ‘A Causal Theory of Knowing’ in “The Journal of Philosophy”, Vol. 64, No. 12, (Jun. 22, 1967), pp. 357-372,  http://www.jstor.org/stable/2024268
3, 戸田山和久『知識の哲学』
4Laurence Bonjour, The Structure of Empirical Knowledge, Havard UP, 1985
5 入江の講義ノート「哲学基礎B(2008ws)「正当化主義の可能性」(2002ws)
 
 
3、問「観念論は内在主義であるか?」
答えは、イエスである。Bonjourによれば、これまでの伝統的な認識論は、内在主義であった。もしそう言えるのならば、「観念論は、内在主義である」といえるだろう。これはごく簡単に証明できる。観念論は、「存在するものは意識されている」と考えるので、「信念の正当化は、意識されている」と考える。したがって、観念論は、認識的正当化に関する内在主義である。
 
4、問「内在主義は観念論であるか?」
事実に基づく答えは、ノーである。なぜなら、現代の内在主義者のほとんどが観念論を取らないからである。しかし、理論的な答えとしは、これは不十分である。
「なぜ現代のほとんど哲学者は観念論を取らないのか」それは、外界に、心ないし意識の外部に物が実在すると考えるからである。これは唯物論ないし物心二元論をさいようするということである。いずれにせよ、外界に物が存在すると考えるならば、そのときには、外界に存在する物が、その物の認識の原因であると考えているはずである。そうだとすると、物についての信念を正当化するのは、最終的には外界の物そのものであり、その物と信念との因果関係であるということになるだろう。そして、この因果関係は、それに我々が気付いていようといまいと、それとは独立に成立しているはずである。このように考えるならば、認識的正当化の外在主義を採用することになるのではないのか。
 逆に言うと、内在主義は、外界の物の実在を認めないときにのみ、成り立つのではないのか。もしこのようにいえるとすれば、「内在主義は観念論である」。
 
(1)Chisholmによる「内在主義の不可避性」の主張
(参照、Roderick M. Shisholm, THE INDISPENSABILITY OF INTERNAL JUSTIFICATION in Synthese 74 (1988) 285-296.)
チザムは、この論文で、内在主義と外在主義を次のように説明している。
 
内在主義者は、<自分自身の意識状態を反省することによって、彼が持っているどのような信念に関しても、彼がその信念をもつことにおいて正当化されているかどうかを、彼が発見することを可能にする認知的原理の集合を、彼が作ることができる>と想定している。」したがって、「信念が内的に正当化されていても、偽でありうる」(p.286)ということになる。これにたいして、「外在主義者は、認識的正当化の適切な説明は、認識的正当化と真理の間の論理的関係を示すべきだ、と感じている」(p. 286)という。つまり、外在主義の場合には、この論理的関係を、「信頼性」や「因果性」などなどの外在的関係によって保証することによって、正当化されているならば、必ず真となるように、知識を定義しようとする。
 
Chisholmによる「内在主義の不可避性」の主張は、<外在主義の信頼性理論も、因果性理論も、いずれも、そのような外在的関係が信念を正当化しているということについて、人が気付いていることを、正当化条件に加わえる必要がある>という主張である。つまり、外在主義は、少なくとも内在主義的条件と結合する必要があるという主張である。
 
このような立場をとるならば、信念が外界の物との因果関係によって成立すると考えること加えて、そのことに気付いていることを、正当化の条件とするのであるから、唯物論ないし実在論と内在主義は両立するだろう。
 
(2)Bonjourによる「内在主義の不可避性」の主張
 
Bonjourは、Chisholmよりも徹底した内在主義を主張する。
 
「私たちは、世界についての私達の信念が真である(あるいは少なくともほぼ真である)と考えるよい理由をもっているか?持っているのであれば、その理由は具体的にどのような形態をとるのか?[・・・・]最初に注意すべきことは、これが、本質的に一人称の問題だという点である。[・・・]基本的な問題(最後には、各人がこの問を自問しなければならない)は、私は、私の信念が真だと考えられるような理由をもっているか(そして、もし持っているのならば、その理由はどのような形態をとるのか)という問である。これが内在主義へ導くのは、問題の理由は、私が持っている理由だと考えられるからである。もちろん、この「持っている」は、私がそれを「はっきりあらゆる瞬間に持っている」というような、ありえない意味ではなくて、多かれ少なかれ、「すぐに利用できる」、あるいは「アクセス可能」という意味である。」(前掲訳、233
 
「私に把握できないかたちで一群の複雑な事実に随伴する正当化や、私に捉えきれない私の心的状態についての複雑な事実に依存する形態の正当化は、問題となっている信念が真だと考えられるための、私が所有する理由ではないことは明らかだろう。さらに明らかなことは、まったく外的な事実に部分的にでも依存するような正当化も、そのような理由を与えないということである。」(前掲訳、234
 
Bonjourのこのような内在主義は、チザムが考えたような意味での外在的条件と内在的条件の結合としての内在主義ではない。このような主張の根拠となるのは、次の主張である。
 
外在主義者Aは、ある人Bの信念bが、ある信頼できる認知プロセスXにもとづいていることによって、正当化されているというだろう。しかし、そのプロセスXの信頼性は、Bにとって、単に外在的な事実であって、一人称的、内在主義的に、彼がアクセスできないものであるとしよう。その認知プロセスXが信頼できるものであるという信念aは、どのように正当化されるのだろうか。それは、外在主義者Aのこの信念aが、さらに信頼できる認知プロセスYに基づいていることによってである。しかし、このプロセスYは、Aにとって内在主義的にアクセスできないものであるとすると、Aの信念aは、Yにアクセスするさらに別の研究者Cによって、正当化されなれなればならない。以下同様につづくだろう。「最終的に、仮定的でない結論に到達するためには、少なくとも何らかのプロセスの信頼性が、一人称的で内在主義的な認識的視野から、直接にあるいは媒介なしにしられるものに基づいて、確立されることが不可欠である」47
 
このような立場に立つ限り、少なくとも基礎的な知識の正当化のレベルでは、外界における物の実在を前提することはできないだろう。仮に外界の実在を認めるとしても、そのことは、外界の想定なしに、基礎付けられた知識から外界における物の実在を証明した後に可能になるはずである。そして、Bonjourは、実際にその順序で、外界の認識について考える。
 
(3)フィヒテの内在主義、あるいは観念論
・知識学とは何か?
フィヒテにとって知識学(=哲学)の課題は、「必然性の感情を伴って意識の中に現れるものの根拠はなにか(あるいは、知性における必然的な表象の根拠は何か)」(GAIV-2, 18, 『新しい方法による知識学』全集7巻、訳6)という問に答えることであった。(知識学の定義は、「学の学」「知の知」の探求と表現されることもあるが、考えられている内容は同じである。)
 
・知識学の方法は何か?
この知識学の方法について、彼は次のように述べている。
「理論的知識学の方法はすでに『基礎』の中で述べられている。それは容易で簡単である。考察の脈絡は、ここにおいてあまねく規制的なものとして支配しているところの、「自我が自己の中に定立にするもの以外には何ものも自我に所属しない」という原則に則ってたどられる。」(『知識学の特性要綱』1795 SW1, 333、全集訳4巻、360
 
「観念論者の体系は、内在的哲学と呼ばれる。なぜなら、観念論者は自分の原理を意識のうちに見出し意識のもとにとどまり続けるからである。」(『新しい方法による知識学nova methodoGAIV-2,22, 全集訳11
 
自我にとって存在するものは全て、自我によって自我の中に措定されている、という立場を彼は繰り返して、強調した。それは、彼が観念論を主張しようとしたからである。その着想を、彼は、「全ての表象に「我おもう」が伴いうる」というカントの統覚の議論から得たのである。カントは、デカルトとバークリを観念論とよび、「観念論論駁」の主張していた。カント自身は、超越論的観念論かつ経験的実在論の立場を主張していたが、それは当時は、物自体をみとめる二元論として解釈されることが多かった。それに対して、フィヒテは、カントは物自体を認めていないと解釈しようとしていた。このような一元論的な観念論の主張は、(彼が解釈するカントが)ドイツでは初めてであり、その意味で、フィヒテは、観念論の特徴を強く意識することになり、認識における内在主義を明確に主張していた。
 

 
本日のミニレポートの課題
「前回説明した「唯一の基底的な気付きが存在する」というテーゼを検討してください」